2024年4月21週報

2024年4月21説教要旨

2024421日(日)説教「見ないのに信じる」要旨

ヨハネ 201431

 

先週の学んだ御言葉ですが、週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけて集まっていました(20:19)こにイエスが来て、真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と祝福されました。弟子たちはまた、イエスの手とわき腹を見せられて、活された主であることを知り、喜びました。弟子たちその喜びはイエスが復活された主であるということを信じたことからでありましょうしかし12弟子のひとりである、ディディモと呼ばれるトマスは弟子たちの交わりの中いませんでした。以前、イエスとともに死のうではないかとさえ、仲間の弟子たちに言ったことのあるトマスでした(11:16)から自分の不甲斐なさを独りで嘆いていたのかもしれません。

一週間経った8日の後、弟子たちは再び一緒に集まっていました。今度はトマスもいました。他の弟子たちは、トマスにわたしは主を見たと証ししたのですが、トマスは、みんながそう言うのならば信じます、言いませんでした。復活の体を持って現れたイエスが十字架で死なれたイエスと同一であることを自分の目で確かめなければ、決して信じないと言ったのです。そこに8日前と同じように、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と祝福しました。そして、イエスは疑っているトマスに声をかけられます。

今日の御言葉で、三つのこと①イエスはトマスの疑いに対してどのように答えられたのか。②イエスのお言葉を聞いて、トマスはどうなったのか。復活のイエスがすべての人に対して言われた御言葉、「見ないで信ずる幸いある」という意味について、学びたいと思います。

イエスはトマスがったことに関して、とがめておりません。確かめさいと言われました。パウロの場合もイエスを知らず、誤解し、キリスト教徒を逮捕したり、迫害したりしていましたが、イエスされたことを思い起こします。イエスは闇を照らし、光を与えてくださるお方です。
トマスは、復活を認めるためには、客観的な証拠が必要と言っていたですがイエスの御言葉を聞いて、自分を顧みることとなりました。その御言葉はイエスがわたしの罪のために十字架にかかられたという十字架の意味と今自分の目の前に復活しておられることを信じることになったのですトマスは自覚しましたトマスは変えられ、イエスに向かって、「わたしの主よ、わたしの神よ」と告白するものとされましたわたしの主という呼びかけの言葉は、旧約聖書の詩編(例えば、27篇)など出てくる神への呼びかけのことばですトマスはイエスのことをわたしの神と自覚したということになります。当時のローマ皇帝も主と呼ばれていましたから、トマスは、イエスこそ真の主であると告白していることにもなります。
イエスの直弟子たちは皆見て信じたと証しされています。一方、見ないで信じる者はさいわいであるとイエスは言われていますが、幸いなことは、見るとか見ないとかではなく、信じることだということです。その後キリスト者になった人々聖霊によってイエスの教えや行いと働きを聞いて信じることになりますが、見ないで信じる者になりなさいというのが、イエスのお言葉です。