2025年1月の説教要旨
2025年1月26日 説教「抵抗を学べ」要旨
ペトロの手紙一 5:5~14
今日は、ペトロの手紙一の最後の部分です。結びの言葉の中に、この手紙においていろいろと勧告している理由が記されています。それは、勧告をすることが、神のまことの恵みであり、この手紙はその証しであるということです。神のまことの恵みの中に入り、堅く立ち、そこにしっかり踏みとどまりなさい、と勧めているのです。
5~12節には、勧告が次から次へと記されています。また、勧告と共に恵みが記されています。勧めるという言葉は、慰める、励ますという意味でもあります。
まず、若い人たち長老に従いなさい、続いてすぐに、互いに(長老も、若い人も皆)謙遜を身につけなさい、とあります。そしてそのみ言葉に対して、『神は高慢なものを敵とし、/謙遜なものには恵みをお与えになる』という恵みの約束が語られます。高慢なものは神に拒否されるのに対して、謙遜な人々は神との交わりの中に置かれ、神の愛を実感できるというのです。謙遜になる可能性は神の力強い御手のもとにあるからこそ自分を低くできることをも示しています。人間は本来高慢なものであり、自分の力では謙遜になれないので、神の力によって低くされなければならないのです。低くなる目的は、高くされるため、すなわち、完全な救いを与えられるためだということが教えられています。
7節には、神に対する謙遜とは、自分の思い煩いを何もかも神にゆだねることであるとあります。ゆだねるという言葉は、投げるとも訳すことのできる言葉ですから、思い煩いを自分で持ち続けるのではなくて、神に投げることでもあるのです。神は、一人一人を心にかけてくださるのですから、投げたものを神は受け取ってくださるのです。
次に勧められていることは、身を慎んで目を覚ましていなさいです。その理由は、敵である悪魔(この手紙では、ローマ皇帝を指しています)が、誰かを食い尽くそうと、探し回っているからです。信仰生活は、外にいる悪魔との戦い、また、内にいる罪との戦いです。戦いの場所は、礼拝であり、祈りです。悪魔は、礼拝に出席しないように、キリスト者に語り掛けます。いろいろな仕方、誘い方があるでしょう。ローマ皇帝のように、政治権力によって、礼拝しないように圧力をかけたり、主イエスを悪魔が誘惑したように、わたしを礼拝すればもっとよいことがある、全世界をあなたにあげるなどという引き換え条件をちらつかせたり、礼拝しなくても大丈夫、何ということはないと言ったりするのではないでしょうか。祈りについても同様です。
それでは、どうしたらよいのでしょうか。9節に、「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさいとあります。戦いの武器は、信仰だということが明らかにされています。悪魔との戦い、罪との戦いは、ライオンと戦うのと同じだと言います。なぜなら、ライオンは獲物を見つけると、追いかけ、捕まえ、そして致命傷となる部分、すなわち首に食いつきます。キリスト者にとって、首にあたる部分が、礼拝であり、祈りなのです。ですから、悪魔や罪と戦い、抵抗するのにもっともよい手段は、礼拝し、祈ることなのです。すなわち、神のまことの恵みの中に踏みとどまることなのです。この戦いは、信仰を与えられている兄弟たちと同じ戦いです、苦しみですが、孤独な戦いではないのです。また、しばらくの間苦しんだ信仰者を完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださる、これが、苦しんでいるキリスト者に対する神のお考えなのです。恵みの源である神は、いつも味方なのです。ですから、信仰者は神をほめたたえるのです。
2025年1月19日 説教「献身的に」要旨
ペトロの手紙一 5:1~7
ペトロの手紙一の最後の章である5章は、新共同訳では、「さて」で始まります。口語訳では、「そこで」と訳されています。「さて」は、前の4章とのつながりが切れているような感じがしますが、「そこで」は繋がりがあることを示しています。実際は、繋がりがあるのです。どういう繋がりでしょうか。
まず、今の苦しみ(迫害のことと思われます)に関して、4章2節には、単なる苦しみではなく、また自分が原因である苦しみでもなく、試練であり、17節では、裁きであるとありました。試練というのは信仰を試し、確かなものとするという意味であり、裁きというのも同じ意味と考えられます。なぜなら、神の裁きは、常に恵みと共に語られており、裁きがあることによって、信仰が確かなものとされるからです。裁きを受け入れてこそ、恵みのありがたさがより分かるからです。
5章1節では、ペトロは、自分もあなたがたと同じ長老の一人であること、またキリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者と自己紹介をします。そして長老たちに、「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい」と勧めます。ペトロはこう勧めるとき、復活の主イエス・キリストから「わたしの羊を飼いなさい」と言われたことを思い起こしていたのではないでしょうか(ヨハネ21:15-19)。長老の務めは、ゆだねられている(自分の所有ではない、また誰かの所有でもない)大牧者イエス・キリストの羊を飼うことであると言うのです。ゆだねられているのは、キリストの故に信頼されているからです。
長老は、キリストが自分の代わりに罪の裁きを受けてくださったことによって、恵みを受けていることを経験しているキリストの苦難の証人です。自分が生きているのは、ただ神の愛、主イエス・キリストの恵みによるということを告白し、生きている人たちです。ですから、長老たちの働きは、愛と恵みに動かされての働きでなければならないということになります。それがどのような働きになるのかと言えば、強制されたものではなく、神に従って自ら進んでなすもの、献身的に(口語訳では本心から)なされるものでなければならないと言われます。言い換えれば、重荷を負わされたという思いをもってではなく、また利得を得るためにではない働きであるということです。また、権威を振り回さないように、群れの模範となるようにと勧められています。
模範となるというのはどういうことでしょうか。それは、神の裁きに打ち勝つ恵みによって生きる、すなわち福音を信じて生きるということを示すということでしょう。ということは、神に従って生きることを示すことになります。しかし、従うことほど人間の本性に反するものはない、なぜなら一人一人、王の心を持っているから、と言われています。従うことが難しい、自分を低くすることが難しいのは、長老も若い人も同じです。人間の本性からして、他人の言うことも、神の言われることにも、従うことは難しいのです。ですから、自分から模範を示すようにとペトロは長老たちに」勧めるのです。御心に従うということは、ペトロにしろ、パウロにしろ、主イエス・キリストによる赦しの恵みを経験する前にはできなかったことです。従うということは、神の力強い御手の下でのみ可能なのです。従うならば、かの時には、しぼむことのない栄冠を受けることになり(5:4)、高めていただけるのです(5:6)。
2025年1月12日 説教「試練としての苦しみ」要旨
ペトロの手紙一 4:12~19
ペトロの手紙一の内容の一つは、当時の迫害の状況の中にいるキリスト者である「善いことをして苦しむ」人々を励まし、慰め、どのように生活すべきなのかを語ることです。
4章になりますと、信仰者は、神の御心に従って生きることが勧められています。キリストが肉において苦しみをお受けになったように、キリストと同じ心構え(覚悟)をもって生活するようにと勧められています。
今日の御言葉は、愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません(4:12)で始まります。ペトロは、愛する人たちと呼びかけています。ここで呼びかけられている人たち(教会)は今、火のような試練(ローマ帝国やユダヤ教徒による迫害)の中に生きています。愛する人たちとは、うれしいことだけでなく、苦しい時も一緒に生きる人たちのことです。しかもキリストを信じ、キリスト共に生きている人たちであり、キリストと切り離すことのできない関係にある人たちです。
キリスト教徒が迫害を受けるということは、初代の人たちだけでなく、現代の世界においても同じです。信仰のゆえに、殺されたり、土地を奪われたり、国を追われたりするのです。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。それは、キリスト教徒が、よそ者であるとか、あるいは異質の存在であるとみられるからです。よそ者は、差別され、敬遠されるのが現実です。ですから、ペトロは、キリスト者にとってこの世は、仮住まいである(1:1)と語っています。また、ここでペトロは、信仰の故の苦しみは、試練であり、思いがけないことではないし、あっても当然のことであると教えています。神の御心に従ってキリストと共にあるということには、キリストと共に苦しむことも含まれているのです。ですから、この苦しみは、キリストの苦しみ(4:13)とも呼ばれています。そして、キリストの苦しみにあずかることは喜びであるとも言われています(マタイ5:11-12参照)。
しかし、苦しみにはキリストの苦しみとは別の原因に基づく苦しみがあり、この二つを混同してはならないということが、次に注意されています。
別の苦しみとは、他人の物を奪ったり、欲しがったり、他人に干渉することによって生じる苦しみです。これは恥じなければならない苦しみといわれます。一方、キリスト者として苦しみを受けるなら決して恥じてはならないとペトロは教えます(4:16)。日本語のキリスト者は、英語でクリスチャン、ギリシア語ではクリスチアノスですが、もともとは、キリストに属するものとかキリストの僕という意味で、シリアのアンテオケの人々が、教会の人をよそ者、異質な人として名付けたあだ名であり、レッテルでした。キリスト者としての苦しみを恥じないようにというのは、恥じる人がいたからでしょう。信仰を持つこと、教会に行くこと、聖書を読むこと、キリスト者であることを隠そうとする人に対して、恥じなくてよいし、キリスト者であるということは、栄誉なのだというのです。神の子・救い主である主イエス・キリストの名によってキリスト者と呼ばれるものとされていることは、恥じることではなく、喜ぶべきこと、神に感謝すべきことであるということです。キリストは信仰者と共に歩んでおられます。キリストと共にあり、キリストの名によって呼ばれること、これほどの名誉があるでしょうか。
2025年1月5日 説教「油を用意しているか」要旨
マタイ 25:1~13
西暦2025年を迎えました。これはキリストがお生まれになってから2000年以上たったということになります。どうしてこのように長い間、教会は存続しているのでしょうか。それは教会が、信仰と愛と希望によって生きるように導かれているからです。今日は特に、教会を支える希望の力について考えたいと思います。変化し、揺らいでいる世界のただ中でも教会は、変わることのない希望を持ってきました。
最初の小さな教会のことを考えてみましょう。人数は、圧倒的に少なくありましたが、確かな希望を与えられていた故に、倒れることなく歩み続けることができたのです。その希望とは、主イエス・キリストが再び来られるということでした。自分の願いがかなえられるという希望ではなく、主イエス・キリストの再臨という希望でした。クリスマスにおいて、この世に来られ、十字架と復活によって栄光を現わされた主イエス・キリストが再臨されるという希望です。最初の教会の人たちは、主イエス・キリストについて具体的に多くを知ることができました。生活を共にし、み教えやみわざを見たり聞いたりした弟子たちがいたのですから、主が来られるという彼らの希望は、空想的なことではなく、この世界は、最終的なものではなく、主が支配する揺るがない堅固な世界が来るという信仰に基づいていました。ですから、ユダヤ教徒やローマ帝国による迫害の中にあっても、主がこの世の力に勝利されるという希望の力によって生き、この世の生活に励むことができたのです。希望は、生活に生きる力を与えるのです。
今日のマタイによる福音書のみことば(「10人のおとめのたとえ」)は、主の姿をこの世において見ることのできなくなる十字架と復活の直前に語られたものです。再臨という希望の実現まで、どのように生活すべきなのかということがたとえ話で記されています。別言すれば、賢い人とはどのような人なのかということです。賢さと愚かさが対比されている点では、マタイによる福音書7章24~27節の「家と土台」と名付けられているたとえに似ているでしょう。
さて、このたとえは、10人のおとめたちが花婿を迎えに出ていくというたとえですから、主の再臨は喜びであるということが前提になっています。また、ここには5人の愚かなおとめと5人の賢いおとめがいるというのですから、世の中には、賢い人と愚かな人が同じように生きているということになります。外面的には皆、同じような生活をしています。たとえば、賢い人も愚かな人も、眠い時には眠るという生活をしているということです。賢い人は眠らなくても生きていけるということはないわけです。ここで、賢い人と愚かな人との違いは、用意すべき「もの」あるいは「こと」を用意しているかどうかの違いです。このたとえでは、10人全員明かりを持っていたのですが、油を用意していたかどうかの違いです。賢いおとめとはどういう人のことでしょうか。花婿を迎えるためには、明かりが必要であるということを知っていたということと花婿が来る時がわからないので、油を用意していた人であるということです。明かりとは、信仰を意味しています。また油とは、明かりの源である御言葉といえるのではないでしょうか。主の再臨にたいする希望が私たちの中に確かであると、私たちの日々のみ言葉に対する姿勢が変わってきます。信仰の灯をともすのに必要なみ言葉を熱心に学び、共に礼拝を続けていきたいと願っています。