なぜうなだれるのか、わたしの魂よ

 

「涸れた谷に鹿が水を求めるように

神よ、わたしの魂はあなたを求める。

神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」(詩編42:2-3)

 

わたしたちは命を生きています。その中で、希望を失い、魂がうなだれるということが起こります。そのようなとき、わたしたちは自分を生かすものによって支えられていることを自覚し、経験します。自分を生かすものとして欠かせないものの一つが希望です。希望がなくなると生き方に、意欲が無くなります。絶望は「死に至る病」です。希望という語は、ギリシア語では「欲する、意欲する」という意味です。希望がわたしたちの命のあゆみを支えます。

 

しかし、今まで自分を支えてくれたすべてのものでさえも役に立たないということの分かるときがあります。詩編の詩人の経験もそのようなものでした。誰からの慰めもこの詩人を癒すことが出来ません。

 

のどの渇いた鹿が谷川を見つけ、川床に降りていきますが、そこに水がありません。のどの渇きは癒されません。魂はへブル語では「のど」という意味でもあります。のどは、食べ物や水また空気などの補給路です。のどは命の道です。この詩人の魂はうなだれています。命を支える希望はどこから沸き上がって来るのでしょうか。命そのものはどこから来るのでしょうか。詩人は祈りの中で魂に向かって呼びかけています。

 

「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ

なぜ呻くのか。神を待ち望め」